しかし、下刊の仏教に関する記述に、私は考え込み読書を中断してしまいました。著者の知識の広さ深さ、論旨の明快さが仏教の所で急停止した感じでとまどってしまいました。
著者は仏教を誤解しています。仏教のなにを誤解しているかを述べる前に、著者の宗教にたいする考えをまとめてみます。著者は宗教について次の様に述べている。
『宗教は貨幣と帝国と並ぶ、人類を統一する三つの要素の一つだった』。そして『宗教とは超人間的な秩序の信奉に基づく、人間の規範と価値観の制度である』と定義し、 そこには二つの異なる基準がある、とする。
『 1 宗教は、超人間的な秩序の存在を主張する。
2 宗教は、超人間的な秩序に基づいて規範や価値観を確立し、それに は拘束力があると見なす。
そして、本質的に異なる人間集団が暮らす広大な領域を傘下に統一 するためには、宗教は普遍的であると同時に、宣教を行うことが求められる 』。
以上の様に述べた上で、宗教を神や神以外の超自然的存在を中心とする宗教と、自然法則に基づく神不在の宗教の二つに区分する。
前者にはアニミズムや多神教、善と悪あるいは神と悪魔という二元論宗教、そしてユダヤ教、キリスト教、イスラム教の一神教がある。 ただし、一神教は多神教や二元論宗教を是認しつつ、そのさまざまの儀式や慣行を組み合わせた混合主義という様式の世界宗教と化している。 その意味で混合主義こそ唯一の偉大な世界宗教なのかもしれないと述べる。
後者の自然法則を信奉する、神不在の宗教の代表が仏教である。著者は仏教をつぎの様に解説する。
『 彼(ゴータマ、仏陀)は苦しみは渇愛から生まれる、と説く。そして苦しみから完全に開放される唯一の道は、渇愛から完全に開放されることで、渇愛から解放される唯一の道は、 心を一連の瞑想術によって鍛えて、現実をあるがままに経験することである。苦しみは渇愛から生じるのは法則だから、もしある人の心があらゆる渇愛と無縁であれば、 どんな神もその人を苦悩に陥れることはできない。逆に、ある人の心にいったん渇愛が生じたら、宇宙の神々が全員揃っても、その人を苦しみから救うことはできない。 救う道はゴータマの一連の瞑想術による心の鍛錬だけである 』。
著者は、このようにゴータマの悟りとは渇愛という心の働きを支配する激しい喉の渇きにも似た衝動の発見と克服の方法にあると結論づけた。
以上の様に著者は宗教を最初にかかげた「超人間的な秩序の信奉に基づく人間の規範や価値の体系」と定義して、有神論の宗教と自然法則の宗教に分類した訳です。
その上で、近代のおける自由主義や共産主義、資本主義、民主主義、ナチズムをイデオロギーと称するが、それはただの言葉の綾にすぎず、自然法則の新宗教だと主張する。
『 ソ連の共産主義は狂信的で宣教を行う宗教だった。敬虔な共産主義者は、キリスト教徒や仏教徒にはなれず、自分の命を犠牲にしても、 マルクスとレーニンの福音を広めるのが当然と思われていた 』。 つまり、その教義は普遍的であり強力に宣教されていたのである。
だからソ連の共産主義はイスラム教と比べて何ら遜色ない宗教なのだ。ただイスラム教は世界を支配している超人間的な秩序を、万能の造物主である神の命令と見なすのに対して、 ソ連の共産主義は神の存在を信じていなかった。仏教は神々を軽視するが宗教に分類される。そして仏教徒と同様、共産主義者も人間の行動を導くべきものとして、 自然の不変の法則という超人間的秩序を信じている。だから共産主義と仏教は類似性ある宗教ないし、イデオロギーと分類して論じている。
著者はこの分類に非常に不快を感じる読者がいるだろうと付言しているが、私は大きな違和感を感ずるその1人です。
違和感の一つは、お釈迦さまの悟りの本質を「渇愛」という、激しい喉の渇きにも似た衝動に支配された心の振る舞いの様式に限定している事です。 後に詳しく述べるように、悟りの本質は渇愛でなく、心の振る舞いの様式に限定されたものでもありません。
違和感の二つ目は仏教の歴史上の論争の経緯に全く触れていない事です。一神教も共産主義にもその教義や解釈の違いをめぐって常に、数万人、数十万人、 数百万人もの残酷な殺戮の歴史がある。仏教にも教義の違いをめぐる数百年にも渡る論争はあったが、殺し合いとなった事例は1つとしてないがこの事の記述がありません。 この事に著者は公正に欠きます。
お釈迦さまの悟りの本質について、仏教集団において数百年に渡る論争がありました。渇愛とは対象に対する本能的な強い執着、欲望のことで、インド語原語の意味から「喉の渇き」に喩えられた。初期仏典では渇愛は苦の源泉とされ、サンユッタ・ニカーヤに「渇愛を捨て去ることによって涅槃がある」との文言(仏教辞典より)があります。
しかしこの考えはお釈迦さまの重要な説法にかかわるものですが、お釈迦さまの悟りそのものではない。お釈迦さまが、説法として苦しみの大きな原因の1つとして激しい心の働きについて語ったもので、悟りをめぐる1つの仏教集団による1つの結論に過ぎない。しかも間違った結論です。
お釈迦さまの悟りとは「縁起の法」です。縁起とは「縁によって生起する」ことで、物事は必ず原因と条件に依存して生起する事を意味し、生存の苦悩は「縁って」生起し、変化し、消滅することを繰り返すものです。そしてお釈迦さまはこの縁起を「人間の心のみの真理」として説かれた訳でもない。この世に存在する一切の生命現象や、森羅万象を貫く絶対的真理として縁起を説かれたのです。
お釈迦さまに「火の喩え」という法話があります。
以下、「空の思想、仏教における言葉と沈黙」梶山雄一著、人文書院より引用します。
『尊者マールンキャはブッタに「世界は常住であるか、無常であるか?」、「世界は無辺であるか、有辺であるか?」、「霊魂と身体は同一であるか、別異であるか?」、「如来は死後存続するか、存続しないか?」等、形而上学的疑問について質問した。同じくヴァンチャゴッタも同様の問題について質問してブッタが意見を述べないのに対して落胆してブッタへの信頼を失ったと申し上げた。
そこで、ブッタは「火の喩え」をもってヴァンチャゴッタに反問する。
< ブッタ >
お前の前に火が燃えているとせよ。ひとが「この火は何に縁って燃え るのか」と問うならば、お前はどう答えるか。
< ヴァンチャゴッタ >
この火は草や薪によって燃える、と答えましょう。
< ブッタ >
その火が消えたとして、その火はここからどちらへ去ったのか。東、 西、北、あるいは南なのか。
< ヴァンチャゴッタ >
そうは云えません。実はその火は草や薪によって燃えているので、他 の草や薪が加えられなければ食無として消えてしまうだけなのです。
< ブッタ >
如来は物と心とのいずれよりも解放されているのであって、
その死後どこかへ行くのでもなく、行かないものでもない。根を断た
れ本を抜かれたターラ樹のように非有に帰せられ、生じないものとな
るだけである。』
お釈迦さまはヴァンチャゴッタに火の喩えをもって如来、つまり悟りを 得た修行者について「非有に帰せられ、生じなしものになるだけです」と答えている。 そして、この答は如来のみについてお話している訳でない。たまたま「火の喩え」をもって如来を語っておられるが、この「火の喩え」は、この世の存在の全てにあてはまる真理なのです。
人の喜怒哀楽の心は喜怒哀楽を心に生じさせるその人自身が持つ原因と条件に「縁って」生起し変化し消滅するだけです。 人、動物、植物等の生命現象も、その生命現象特有の原因と条件に「縁って」、営まれるものです。全ての天変地異も同じです。
龍樹菩薩が説かれるように、この世に他に依存せず(自立的)、絶対に変化せず(恒常不変)、単一であるという実在の3つの要件を満たす存在は皆無なのです。
このお経で繰り返して説かれる教理が「一がそのまま一切であり、一切がそのまま一である」を意味する「一即一切」(いちそくいっさい)です。これは「一つの塵の中に全宇宙が宿り、又一瞬の中に永遠がある」とも表現される有名な教理です。
まことに不思議で私達の日常生活の感覚とは全くかけ離れた教理です。 しかしお釈迦さまの悟りである「縁起」、そして「縁起」に言葉の意味として潜在していた「相互依存性」を明らかにした龍樹の「空」の論理をもって考えると、不思議とは云えない実感に打たれます。
龍樹はまず「実在」を次の三つの要件で定義する。『実在するものは他に依存しないから「自立的」である。実在するものは絶対に変化しないから「恒常不変」である。実在するものは複数では有り得ないから「単一」である。この世に自立的で恒常不変で単一のものは存在しない。もしあるとすれば、それは言葉の世界だ。』
この世の全ては他に「縁って」存在し相互依存の関係の中で生成、変化、消滅を繰り返すだけです。これは人間の喜怒哀楽の心を含む動植物の生命現象も、宇宙天体を含む天然自然を含む一切を貫徹する唯一の原理なのです。 「一即一切」の教理は現代の物理学の知見によって論理的に明快に説明出来ます。
物理学は私達が目にする物が「物質→分子→原子→素粒子→クォーク」の階層によって構成されている事を明らかにしている。それでは物理学によって実証的に観測され確認されているクォークは、この世界の最小単位の物質でしょうか?
量子力学の世界では長さの単位が原子の10-10メートルから、プランク・スケールと呼ばれる10-35メートルまである。同じミクロンの単位の中でも原子とプランクスケールとでは25桁の違いがある訳です。一方この25桁は、地球の直径が12,800km(1.28×107メートル)で、観測可能とされる宇宙の直径200億光年(2×1023km)との計算上の差19桁より大きい。
私たちが知り得る宇宙より、原子の空間がはるかに広大なのです。まさに「一即一切」の現実です。
しかもプランクスケール10-35メートルは量子力学の世界で最小単位とされる長さの単位ですが、それは理論的に計算上想定されているだけで、実際の究極の単位ではない。空の論理によれば、他に依存せず、恒常的に変化せず、単一の実在は有り得ないから、相互依存の関係は無限の彼方へ続くので、小ささの単位は「無限小」なのです。
観測可能な宇宙の直径が200億光年としても、それは宇宙の観測可能性の限界です。直径が200億光年を一つの宇宙とすればさらにその四方八方には現代の技術では観測出来ない宇宙世界が広がってる訳で、神の如く全宇宙を俯瞰できれば200億光年の宇宙とは私達がいま見ている星空の一つの星座みたいなもので、200億光年を一つの星座としてその外にさらに無数の星座が散らばる無限の宇宙空間が続いているはずです。
つまりは物質世界あるいは空間世界とは「無限小」でかつ「無限大」なのです。
現在の宇宙は天地開闢の大爆発によって誕生したとされる説、ビッグバンがある。物理学の計算上、ビッグバンによって宇宙生成されるまでの時間は数千万分の一秒だそうです。200億光年の宇宙世界がまさに「一瞬」にして誕生した事になります。それが無始の昔から無終の未来に向かって連綿と無数に繰り返されているのでしょう。
文字通り、華厳経の「一即一切」つまり「一瞬の中の永遠です」。多分、このお経を説かれた神秘的修行者は深い瞑想の中でこの事を如実に見ていたのでしょう。その事を現代の物理学者はその一端を数学的に検証したのです。
こうしてお釈迦さまの悟り「空」とは空間的に、無限大でかつ無限小である事、時間的に始まりはなく終りがない事を意味している。人はそんな原理の中で喜怒哀楽の中で人と交わり、動植物を含む天然自然の中で無限の苦の生死を繰り返している。 お釈迦さまは「智恵を完成する瞑想」(般若波羅蜜多)によってそうした終りのない相互依存の世界からの解脱を説かれているのです。
しかし、それにしても「空」とは「始まりもなく終りもない世界」、「無限大にして無限小の世界」を示すものだと言葉の意味として分っても、感覚的に理解不能の世界です。それだけでなく私は最近もう一つ不思議な現象を知りました。昨年、チベット仏教のダライラマ法王が来日された。その招聘元の団体の代表の方と懇談する機会がありました。 色々と話が弾む中で私は質問した。
「チベットや東南アジアの仏教国では般若波羅蜜多、つまりお釈迦さまの瞑想で智恵の完成を得て解脱された修行者が少なからずおられるのではないか?」。その答えは不思議なものでした。
「ございます。坐禅の姿のまま亡くなられた方で遺体が腐敗しないので遺体を特殊な塗料で装って、寺院に仏像として安置される方がおられます。又、亡くなると遺体が次第に縮小してやがて消失してしまう方もおられます。」
私はその会話で龍樹菩薩の伝説を思い出した。龍樹は最初の著書中論でこの教えのオリジナルはお釈迦さまにあると宣明して「空」を説き、大乗仏教の基礎を築き日本では八宗の祖と称されている。
龍樹が亡くなった時、蝉が抜け殻を残して飛び去るように、衣を残して姿を消してしまった、と云う有名な伝説があります。
解脱者が遺体ごと消失するというのは何千年前から現代迄続いている現象なのでしょうか?もし龍樹の伝説が実際の現象として存在しているのであれば、私達が展開する論理とか、人類史上もっとも発達した現代の科学技術をもってしても解明出来ない、不思議な世界に私達が生きているのでしょうか?。