Ⅳ お釈迦さまの悟りと教え
- (1)古代インド人の悩み
- お釈迦さまは当時のインド人のどんな悩みに答えようとしたのか?それは未来永劫、滅する事のない輪廻転生への恐れ、苦悩でした。 お釈迦さまの時代に主流をなしていたのはバラモン思想でした。バラモン思想では実在して永久に流転する我「アートマン」が説かれていた。アートマンは悪行により闇の世界に落ち、善行により天界に生まれるとされた。天界では美しい花園、華やかな音楽と舞、贅をつくした食物と酒を楽しみ幸せな時を過ごします。しかし善行の果報を享受し尽くすと再びこの世に生まれ戻るのです。 こうして転生する生存は楽しみと喜びもあるが、苦しみも多い。王侯貴族に生まれるか、貧しい農夫に生まれるかにより、その貧窮や苦しみに大きな違いが出てきます。そこで苦しみや悩みの少ない階級に転生するため善行に励まなければならない事になる。しかし、どんなに善徳を積んでも時が訪れ、善悪、徳不徳が計られて最後の審判により、苦しみの輪廻を終えられる事がない。人々を深い苦しみと悩みから救い出す神が存在するわけでもないのです。 この時代のインド人にとって輪廻は無限の不安の種であり、現実の苦悩であり、恐怖でもあったのです。
- (2)お釈迦さまの初めての説法、四聖諦
- お釈迦さまが菩提樹の下で悟りを得た後、最初に説かれたのは四つの聖なる真理、四聖諦でした。これは苦諦、集諦、滅諦、道諦つまり苦集滅道です。
- ①苦諦(苦の真理)
- 苦に関する真理です。バラモン思想において苦の根本原因は、実在する我の終える事のない永遠の輪廻とされた。 そもそも悪行や不徳は苦しみの原因になります。しかし、善行や積徳もまた苦の原因になります。善悪も徳不徳も五蘊、つまり肉体と心の無常なる働きによるからです。この世には美しいもの醜いもの、名誉や不名誉、才能と無能、豊かさと貧しさなど、永続するものなどなく、無常に変転流転するだけです。お釈迦さまは五蘊が無常だから苦なのだと説かれたのです。
- ②集諦(集の真理)
- ではなぜ苦の連鎖が続くのか?それは五蘊が苦の原因となるものを集めているからです。実は真理に無知であれば善悪も徳不徳も同じように苦の原因となるのです。こうした真理に暗いままの五蘊の働きを、無明と云います。人間は無明のままであれば、まるで実在する我が未来永劫輪廻する如くに、苦しみの原因を集めつつ終わりない転生を繰り返すのです。
- ③滅諦(滅の真理)
- ではなぜ苦の連鎖が続くのか?それは五蘊が苦の原因となるものを集めているからです。実は真理に無知であれば善悪も徳不徳も同じように苦の原因となるのです。こうした真理に暗いままの五蘊の働きを、無明と云います。人間は無明のままであれば、まるで実在する我が未来永劫輪廻する如くに、苦しみの原因を集めつつ終わりない転生を繰り返すのです。
- ④道諦(道の真理)
- こうして苦の本質、苦の原因、苦の滅を説かれた上、苦を滅する道があるとされた。それは、他でもないお釈迦さまが考えられた、般若(智慧)を波羅密多(完成)する瞑想、つまりプラジニア(パンニャ)です。
- (3)お釈迦さまの二回目の説法、縁起の法
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- お釈迦さまは四聖諦に続いて二回目の説法をされました。それが縁起の法です。縁起の法はお釈迦さまの悟りの内容そのものです。この世の唯一にして絶対的真理です。 四聖諦において、苦は五蘊が無常なることに原因があると説かれた。では何故、五蘊は無常なのか。それは、五蘊、つまり肉体と心の働きは、それ自体の単独の働きで動くは事なく、常に「他に縁って」、他に依存して動くからです。その働き動きだけでなく、そもそも五蘊は他に依存して存在するのであり、単独の実在性などないのです。 肉体は空気と水と食物によって作られた物体ですが、やがて空気と水と土に還ります 怒の心は、怒りを誘発する事象によって生じますが、事象が変われば消滅します 優しい心は、優しさを誘発する事象によって生じますが、その事象の変化の仕方によっては怨みの心に変わる事があります 肉体も心も常に他に依存して時々刻々と変化しております。このような五蘊の縁起的な生成と消滅、変化こそこの世の真相なのです。
Ⅴ 仏教哲学(アビダルマ)
- (1)五蘊
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- 五蘊の蘊とは集まりとか、全体を構成する部分を云います。五蘊とは人間の五つの構成要素を云います。色、受、想、行、識です。色とは感覚器官(眼、耳、鼻、舌、身、意)を備えた肉体です。受想行識は心、つまり精神作用を四つの働きに分けたものです。 受は苦、楽、不苦不楽の三種の感覚作用です。想は感受した認識対象から、その姿かたちや像、音、におい、味などを受動的に受ける表象作用です。行は受けた表象作用に対して能動的に意志する働き、あるいは衝動的な欲求です。識は能動的な意志ないし衝動的な欲求に基づく、認識あるいは判断です。 コンピュータの専門家によれば、人間は常に周囲から一秒間に百万ビット(ひらがなで百万字)もの情報を受けているそうです。仕事中でも、休養中でも、ただ部屋に居ても、歩いていても、車を運転中でも、電車の中でも、六つの感覚器官により常に膨大な情報を受信しているのです。それが受信の段階で終わるか、想の段階で終わるか、行の段階で終わるか、識の段階で終わるか、そうした心の働きの結果、肉体の行動の段階まで行くのか、一人一人、その都度、異なってくる訳です。 仏教は人間の存在全体を、肉体とそれを拠り所とする四つの段階からなる心の働きをもって、表し尽くすと考えているのです。
- (2)十二処(十二の領域)と十八界
- ①バラモン思想の取り入れ
- 時代が下るにつれて、お釈迦さまの教えにさまざまの解釈がほどこされ理論化されて、アビダルマと云う仏教哲学(論)が構築されていった。 古代からバラモン思想には六つの感覚器官である、眼、耳、鼻、舌、身、意を羅列して認識の成り立ちを考察する思考法がありました。アビダルマは、このバラモン思想を取り入れて、感覚的、知覚的な認識を三つのカテゴリーに分類した。さらにそれぞれ六種の要素に分析して、認識は三つのカテゴリーと六種の要素によって成り立っているものとした。
- ②十二処と十八界
- 十二処とは六根と六境を合わせたものを云う。六根とは肉体が持つ六つの感覚器官で眼、耳、鼻、舌、身、意です。六境とは六根が働く対象で色、声、香、味、触、法です。この場合の色とは眼に映る色彩や形を意味する。又、法とは六根の意によって認識される経験的事物を云う。 この十二処の働きによって六種類の認識が成立するが、それが眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識です。十二処に六識を加えたものが十八界です。このように五蘊はさらに精密に十八界に分類され、人間が無常の流転する様相を分析した訳です。
Ⅵ 説一切有部の実在説
- お釈迦さまの悟りと教えは、時代と共に精緻に理論化されていった。それが説一切有部によってとんでもない実在説に転化し、それが仏教界の主流になっていきます。
- (1)五位七十五法
- 説一切有部は次のように考えたのです。 お釈迦さまは煩悩の世界と煩悩を絶滅して涅槃に至る道を説かれた。だからこの世は煩悩の世界と涅槃の世界がある。そこで説一切有部は、五蘊、十二処、十八界に涅槃の世界を加えて論理的に整理した。これを存在の要素として五つの領域に大別し、さらに七十五種に分割した。 五つの領域とは物質の領域、心の領域、心の作用の領域、心と結びつかないものの領域、涅槃などの領域です。七十五種の要素は、これ以上分割出来ない究極の存在の構成要素です。 この五つの領域の七十五種の存在要素を五位七十五法と云う。
- (2)三世実有・法体恒有(五位七十五法は三世に実在する)
- 五位七十五法における法(存在)の本体(七十五種の要素)は、過去、現在、未来の三世にわたって実在する。これら存在の本体は恒常的な本質(自性)を保ちながら、いまだ生起あるいは作用を終えてない状態を未来と云う。現に生起あるいは作用しつつある状態を現在と云う。すでに生起あるいは作用を終えた状態を過去と云う。 この七十五種の要素は三世に実在すると云う考え方を三世実有・法体恒有と云います。そして実在する七十五種の本体は森羅万象を構成する要素であり、諸法無我の無我説に抵触しないと主張したのです。 この三世実有・法体恒有説は説一切有部の主要な教義となった説でした。
- (3)三世両重の因果説(十二支縁起は三世に実在する)
- ① 此縁性(縁起の法)
- 縁起の法を最も簡明に表現されたのが次の言葉です。 此れある時此れあり 此れ起こるから此れ起こり 此れない時此れなく 此れ滅すれば此れ滅す これは四支(四つの条件)をもって表現してますが、後に六支、九支、十支の数で説かれたものもあるようです。いずれの表現にせよ縁起の法とは「物事は他に依存して生成、消滅を繰り返すだけで、固有の性質を変わらない実体としてもつものは存在しない」と云う理法です。
- ②十二支縁起
- 縁起の法を人間の無常なる五蘊を説明するために構築されたのが十二支縁起です。十二支縁起は、現実の人生の苦悩の根元を追求し、その根元を断つことによって苦悩を滅するための十二の条件を時間的な縁起と因果の関係で系列化したものです。
- 1)無明 基本的無知に縁って行、つまり意欲や行為がある
- 2)行 行に縁って識、つまり意識がある
- 3)識 識に縁って名色、つまり観念的物質的存在がある
- 4)名色 名色に縁って六処、つまり六種の認識器官(六根)がある
- 5)六処 六処に縁って触、つまり意識・感覚対象の接触がある
- 6)触 触に縁って受、つまり感受がある
- 7)受 受に縁って愛、つまり渇愛、妄執がある
- 8)愛 愛に縁って取、つまり執着がある
- 9)取 取に縁って有、つまり生存がある
- 10)有 有に縁って生、つまり誕生がある
- 11)生 生に縁って老死が生ずる
- 12)老死 老死に縁って無明、つまり全ての苦蘊の集起がある
- 最初の無明、基本的無知とは縁起の法にくらい事です。縁起の法にくらいから、次に2)~12)に至る経過をたどり、結局、1)~12)を永遠に繰り返すことになる(順観)。しかし逆に縁起の法に目覚めれば2)~12)の条件は消滅して、修行者の現実の最大の恐怖である輪廻も消滅する(逆観)。十二支縁起はこんな教えでした。
- ③三世両重の因果説
- 十二支縁起について説一切有部は胎生学的に解釈して、三世に二重に因果関係になっていると主張して、三世両重の因果説をうちたてました。
- 三世 十二支縁起
- 過去世の因 1)無明、2)行
- 現在世の果 3)識、4)名色、5)六処、6)触、7)受
- 現在世の因 8)愛、9)取、10)有
- 未来世の果 11)生、12)老死
- <過去世の因>
- 1)無明は迷いの根本。2)無明から次の識を起こす働き。
- <現在世の果>
- 3)識は受胎の初めの一念。4)名色は母胎の中で心の働きと身体とが発育する段階。5)六処は六つの感覚 (眼、耳、鼻、舌、身、意)が備わって母胎から出ようとしている段階。6)触は二~三才ころで苦楽を識別 することはないが、物に触れる段階。7)受は六~七才ころで、苦楽を識別して感受できるようになる段階。
- <現在世の因>
- 8)愛は十四~十五以後、欲がわいてきて苦を避け楽を求めたいと思う段階。9)取は自分の欲するものに 執着すること。10)有、つまり生存は愛、取の段階とともに未来の果が定まる段階。
- <未来世の果>
- 11)生と12)老死は未来の果。
- (4)一切有部が最大勢力化
- これまで述べてきた、五位七十五法、三世実有・法体恒有、三世両重の因果説は説一切有部の主要な教説でした。お釈迦さまが悟りの内容として説かれた縁起の法、つまり実在の否定が、もののみごとに覆されてしまったのです。しかも、この時代、説一切有部は教説が強く支持され仏教界の最大勢力をほこるまでになっていったのです。
Ⅶ 般若経と龍樹
- (1)般若経を書いた修行者達
- 説一切有部の実在説が仏教界の大勢をしめる中で、それに異議を唱える修行者達がおりました。 彼等はお釈迦さまの瞑想、プラジニアを修得した神秘的修行者でした。彼等は瞑想の中で仏(悟った人)を観たとして、十方世界に多数の仏がいると主張した。そして彼等にとって瞑想は真理探究の唯一の道でもあった。 「ある対象に意識を集中して瞑想を続けていると、その対象の名前、その形は次第に消えていく。思惟されるもの、表現されるもの、知覚されるものはすべて消え失せてしまう。最後まで残っている最高の真実は、生じもせず、滅しもせず、来たらず、去らず、作られたものでもなく変化もしない。いかなる形でも現象せず、時間的にも空間的にも無限無辺である。それはすべての規定を離れて、静寂、孤独、清浄である。」※ 説一切有部の仏教哲学は多元的な本体(七十五種の実在する要素)を主張した。しかし瞑想の中で観た真実の世界は言葉と表象を超えた一元の世界であった。彼等は仏の真意は説一切有部の仏教哲学のような知的分析、ジナナでなく、瞑想の実践、プラジニアによってのみ得られると確信した。そして、彼等は瞑想の中で観た真理は空であると説き、直感と比喩をもって般若経を書きつらねていった。こうしてお釈迦さまの根元的な教えへの回帰を主張したのです。
- (2)龍樹
- ①龍樹の立場
- 般若経を書いた修行者は、瞑想の中で観たものを直感と比喩で書くのみであった。これは分析的、論理的な言葉による思惟ジナナに対する瞑想による直感的、直証的、総合的に究極の真理を得る智慧、プラジニアによる反論です。これではジナナとプラジニアとの対立で、議論がかみ合わないものがあります。龍樹はお釈迦さまの瞑想を修行した聖者です。同時に分析的、論理的思惟ジナナにもすぐれた能力をもつ修行者でもありました。 龍樹は、説一切有部のジナナによる実在の哲学に対して思惟と言葉、ジナナで対決したのです。
- ②龍樹のお釈迦さまに対する帰依
- 龍樹は実在論(有の立場)と虚無論(無の立場)が共に否定された「中」又は「中道」の立場から、ものの真のあり方を説く「中論」を書きました。 中論とはお釈迦さまの悟りの内容である縁起の法を、中の見地から空であると説かれたものです。そして「中論」の冒頭の帰敬偈で、空のオリジナルはお釈迦さまにあると宣明している。 「滅びもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来りもせず、去りもしない依存性(縁起)は、言葉の虚構を超越し至福なものであると仏陀は説いた。その説法者の中の最上なる人を私は礼拝する。」
- ③空の論理と相依性
- 中論は中の立場から説く縁起であり実在論を空の概念で徹底して否定して論証したため「空の論理」と云われた。実在を徹底して否定したため、実在の反対概念である虚無を主張する虚無論者であると批判された。しかし空の論理は実在、虚無を共に否定するもので、その批判はまったくあたらない。 空は縁起と同意義の存在論として語られます。これは龍樹が空を論証して、縁起の概念に相互性(相互依存関係)と云う要素を加味して再構築したためです。ここに龍樹の偉大な功績があったと云われる(上田義文教授)。ただし相互性という要素は、縁起の法に当然の論理として含まれていたと考えるべきでしょう。それまで誰も気付かなかったお釈迦さまの論理に、プラジニアを修得した龍樹が、ジナナの思惟によって指摘したと云う事です。
- ④龍樹による実体(実在、本体、自性、本質的存在)の定義
- 実体は他に依存する事は有り得ず、他に依存して生じたり滅したりしないから自立的です。実体は変化する事なく永続する。永続すると同時に絶対に変化する事がない。一つのものに本質が二つあることはない。本質が複合体だと云うのは有り得ないから単一です。 つまり実体を次の三つの要素をかかげて定義したわけです。 自立的である。 恒常不変である。 単一である。 事実の世界に存在しているものは次のとおりです。自立的でなく縁起したもの(相互依存関係で生起する)です。恒常不変でなく変化するものです。単一でなく複合的です。従って事実の世界では実体のあるものは一切存在しないのです。もしあるとすれば、それは言葉の世界だ、と龍樹は説いたのです。
- ⑤言葉の虚構性
- 「私達の判断が成り立つためには言葉の多様性が必要になる。言葉の多様な意味や概念に基づいて判断や推理を行う。判断や推理には価値判断が伴う。その価値判断に私達は愛着し、執着するから煩悩を生じて行為を行う。そして生死流転する。だからそれを逆に断ち切っていけば、私達は解脱する事になる。」※ 人は言葉で考えます。言葉があれば、それに対応するものがあると考えます。しかし、言葉は決して事物の真相に対応したものでありません。事物の真相から言葉が引き出されたものでない。龍樹は、こうして空の論理で実在説を否定して、仏教をお釈迦さまの縁起の法へ回帰させていったのです。
- (3)空について
- ①お釈迦さまの悩み
- お釈迦さまは成道直後、言葉による布教をやめようと思ったと云われる。また布教を始められた後も、悟りの内容である縁起の法にかかる、形而上学的な議論に対して沈黙されたのです。なぜなら、縁起の法は人々の思慮を越える深甚微妙な理法であり、人々の認識と言葉と行為を超越しており、とうてい人々の理解を得られない要素を含むものだからです。 お釈迦さまはまた、言葉で表現出来ない縁起の法を人々に説こうと決意された時、言葉を越えた真理が、言葉による多様な概念化により、本来の真理とは遠く隔たったものに変質していくことを予見されていたかもしれないと云われる。その予見がまさに説一切有部の出現により現実になった訳です。
- ②プラジニアの智慧とジナナの思惟
- お釈迦さまの悟りは、瞑想によって瞬時にして究極の真理を直感的、直証的、総合的に得る智慧、つまりプラジニアによって達成されたものです。それは、普通の人々の認識力や言葉が持つ能力を越えた世界の出来事でした。 この出来事は丁度、イエス・キリストやキリスト教の聖者が、神を観る、神の声を聞く、と云う奇跡と同じような事でないでしょうか。神とは特別の能力、特殊な修行をした聖者にとって存在を知る事が出来る。しかしその姿形、能力、存在の形態は言葉では表現出来ない。だから、ジナナ的思惟でその存在を侃々諤々議論しても決して終着に至る事がないのです。しかしどんな言葉をもっても表現出来ない神はキリスト教において存在するのでしょう。 プラジニアの智慧により得た縁起の法を、ジナナの思惟により最も忠実に表現された言葉が前述、龍樹の帰敬偈です。「滅びもせず、生じもせず、断絶もせず、恒常でもなく、単一でもなく、複数でもなく、来りもせず、去りもしない依存性(縁起)は、言葉の虚構を超越し至福なものであると仏陀は説いた。~」。これは「不生不滅、不常不断、不一不異、不来不去」の八不、八つの否定によって限定された依存性をお釈迦さまは説かれたとするものです。 恐らくこの八つの否定による表現が、プラジニアの智慧によって得られた縁起の法を、ジナナの思惟によって表現出来る限界なのでしょう。その限界的、最大限の表現でもっても、私達には理解出来ないものがあります。 そこで龍樹の空の論理による縁起の法を次に述べてみます。
- ③空とは
- 龍樹は実在の要件として、自立的、永久に変化しない、単一である、の三つを掲げました。全ての物事でこうした三つの要件を満たすものはないとして実在を否定しました。一方、現実の私達の生死、物事の存在と変化は否定しようもなく認識出来るから虚無を否定した。 空とは実在でなく虚無でもなく、相互依存関係で生成消滅を繰り返す現象です。相互依存関係が変わらなければ実在する如くに永続し、相互依存関係が変化すれば虚無の彼方へ消滅した如く消える。相互に依存関係にあるそれぞれの物事も、さらに相互依存関係の中で存在し、その関係性は無限の彼方まで続き果てがない。 星空の広がる宇宙空間には果てがない。物質的存在の相互依存関係は分子、原子、原子核、素粒子と極小の物質の連鎖へと続きます。それは多分、広大無辺な宇宙空間とは逆に極小無辺の果てしない彼方に連なっている事でしょう。 人間の先祖は十代、百代、千代と続き、その始源は知るよしもありません。 人々の才能、富、権力、出自などは相互依存の関係で生成、消滅するもので、無常です。特定の人にとっての未来永劫実在する一つの才能、財力、権力、高貴な家柄などと云うものは存在しない。幾度、転生しても高貴に生まれ出る、あるいは貧しい人生以外を選択出来ない、と云う事は有り得ないのです。 人々の怒り、恨み、妬み、あるいは喜び、楽しみなどの心は、その時々の有形無形の相互依存関係で生成、消滅するだけで、未来永劫変わらないと云う実体がない。だから、怒り、恨み、妬みなどの否定的な心の動きは、許す、忘れると云う心の動きで、消滅する。相互依存関係の中で生成するものだから、一方のみそうした心の動きでも消滅してしまうものです。 「全ての存在は化学反応だ」と表現するアメリカ人の事を聞いた事があります。化学反応で一定条件で反復して再現性あるものを原理とか真理と云います。しかし条件が変われば、その反応はいかようにも変化します。条件が変わらないと云う存在は有り得ません。どのような条件でも反応しない物質はありません。反応してその条件のもとでの現象や物質が消えたからといって物質は無に帰った訳でなく他に変化しただけです。そんな意味では空とはつまり化学反応と云う表現は言葉の意味として大変適切です。
- ④空の智慧は何故、宗教的実践の指針になるのか
- 自分では気付かないのですが、人間は非常な多面性を持っております。 人はそもそも、さまざまな立場を重複し共有しております。夫又は妻、子供の親、両親の子供、兄弟又は姉妹、友達、学友、職場の同僚か部下又は上司、趣味の会の仲間など、数えあげたら際限なくあります。 そこで例えば、妻からみたあなた(夫)は子供からみたあなた(親)と同じ人間だろうか?両親からみたあなたは兄弟、姉妹からみたあなたと同じ人間だろうか?職場の同僚からみたあなたは部下又は上司からみたあなたと同じ人間だろうか?同僚Aさんからみたあなたは同僚Bさんからみたあなたと同じ人間だろうか? 妻には厳しいが子供に甘い。両親を大事にするけれど兄弟、姉妹の面倒をみない。仕事は出来るけど部下を育てず上司にへつらう。同僚との付き合いはいいが酒癖が悪い。食事の作法や服装の好みの違いで品がないとかセンスが悪いと云って反目する事も珍しくない。だから「あの人は優しい」「あの人は厳しい」「あの人は薄情だ」「あの人は能力がある」「あの人はだらしない」等々、同一人物に相反する要素も含めてさまざまの評価が下されている。 いずれも、その人の実体ではないのです。その評価は、その時々の二人の相互作用によって生じた印象に過ぎず、状況によって刻々と変わるものです。 この事は人間はいか様にも変わり得る可能性を潜在的に持っている事を示すものです。極端な事例を持ち出すまでもなく、交通事故を考えると人は簡単に殺人者にもなるのです。一人一人の人間の中にはあらゆる可能性が秘められています。その両極は極悪非道な存在とお釈迦さまの悟りに至る道をたどれる存在です。 すべては相互依存関係の中で存在して未来永劫変わらない実体がないと云う空の智慧は、人間すべてに仏性、つまりお釈迦さまの悟りの道を発見して仏、(覚めた人)になる可能性がある事を教えているものです。 ここに空の宗教的実践の指針としての意味があるのです。