Ⅰ 般若心経成立の時期とその経緯
- (1)成立の時期
- お釈迦さまが入滅されたのは紀元前四百年頃です。般若心経が成立したのは紀元後三百年から五百年の間と云われます。したがって般若心経の完成は、お釈迦さま入滅後七百年から九百年後になるわけです。
- (2)成立の経緯
- ①般若の意味
- サンスクリット語にジナナ(jnana)と云う言葉があります。ジナナとは物事を分析的、論理的に思惟して、この世の真理をきわめる最高の智慧で、叡智を意味します。 ジナナは古代から、宗教、哲学、社会思想においてすぐれた成果を生み出してきた思惟の形です。近代から現代に至る科学技術上の発展をもたらした最高の思惟の形でもあります。この思惟の形は今日、私達が日常繰り広げる、 政治的活動、経済的活動、文化的活動やなんらかの組織活動においても、その円滑、円満な遂行に欠かせない思惟の形です。 ところがジナナをさらに強調するプラ(pra)と云う接頭辞を付したプラジニア(prajna)と云う言葉があります。プラジニアとは思惟ではなく、瞑想によって瞬時にして究極の真理を直感的、直証的、総合的に得る智慧を意味します。 このプラジニアをサンスクリット語の俗語形であるパーリ語でパンニャ(panna)と云います。このパンニャの漢字の音写語が般若なのです。 私は般若はどの様な作法の瞑想によって得られるものか知る事は出来ません。しかし時々、科学上の偉大な発見発明した人の逸話の中にその片鱗を知る事が出来ます。何年も何十年も1つの物理的現象の法則性や原理を求めてきた研究者が、 「夢の中で解答を得た」とか「思考に疲れた体を湯舟にひたしていた時に突然ひらめいた」と云った体験談です。 膨大な思惟と研究活動の成果として瞬時にそれを要約して1つの単純な法則、原理として解明されるのは、まさにプラジニア的智慧です。 プラジニアはお釈迦さまが悟りを得た智慧です。ジナナとはお釈迦さまの悟りや教えを分析的、論理的に解明して評価し体系化する智慧でした。 同じ智慧と云っても、思惟の方法においても、内容においても、深さ、素早さ、細やかさ、大きさ、高さ、そして実証性においても全く異なるものです。仏教書において智慧と云う場合、プラジニア、ジナナが区別されていないきらいがあります。般若心経の理解には、この2つの智慧を明確に区別する必要があります。
- ②成立の経緯
- ⅰ 五蘊と縁起の法
- 仏教においては人間を五蘊、つまり五つの集まりと考えます。色、受、想、行、識の五つです。色とは肉体で受想行識は心のはたらきを四つの段階に分けたものです。仏教では人間を肉体と、それを拠り所とする心のはたらきからなるものとみて、この五つにより一人の人間の存在全体を表し尽くすと考えたものです。 お釈迦さまはプラジニアの智慧により五蘊は他に依存する関係で生成、消滅するだけで未来永劫変わらない実体などは無いのだと云う真理を悟りました。これを縁起の法と云います。それまでのバラモン思想にある未来永劫、消滅する事なく輪廻する我、つまり魂を否定したのです。
- ⅱ 説一切有部の実在説
- お釈迦さま入滅後、四百年程経つ頃になると、教団は四分五裂して、三十を超えるまで分裂しました。この中に説一切有部(すべてはあると説く集団)があります。彼等はジナナによりお釈迦さまの悟りと教えを解釈し、すべては実在すると云う仏教哲学を完成しました。彼等の精緻な論理は多くの支持者を集めて、この時代の最大勢力となりました。
- ⅲ 般若経
- 説一切有部に対して、プラジニアの智慧によりお釈迦さまの真意を知る神秘的修行者がおりました。彼等は説一切有部の実在説に異議をとなえて般若経を書き空を主張しはじめました。それは瞑想の中で見た悟りの境地、瞑想の中で会った仏(悟った人)を直感と比喩で語るものでした。そして自分達が主張する空こそお釈迦さまの真意であるとしました。
- ⅳ 龍樹
- 般若経を説く集団が現れてから、さらに二百年後に龍樹が現れます。龍樹は直感と比喩のみで説かれた般若経の空に論理を与え空の論理を完成する。空の論理は縁起の法を展開したもので、お釈迦さまの教えへの回帰でありました。空の論理は大乗仏教として仏教の基層となっていきました。
- ⅴ 般若心経の成立
- 般若経誕生の後、そして龍樹の後も数百年経過する中、現代の仏教宗派の基礎となるさまざまの経典が誕生していきました。 そうした中で、お釈迦さま入滅後、七百年から九百年の間に起こった歴史的経緯と悟りの本質を簡潔にまとめ、その頃興起してきた密教の最強の呪を与えて、一つのお経を完成した修行者がおりました。それが般若心経です。彼もプラジニアの智慧によりお釈迦さまの悟りの本質を良く知る神秘的修行者であったのです。
- (3)舎利子のこと
- 般若心経の成立が、お釈迦さまが入滅されて七百~九百年後とすると、その文言の中にその歴史的事実と矛盾するものがあります。 舎利子の事です。舎利子はお釈迦さま十大弟子の一人です。智慧第一と云われた実在の聖者です。お釈迦さまの信任あつく、たびたびお釈迦さまに代わって教えを説く事がありました。 般若心経の中に「舎利子よ」と呼びかける文言があります。まるで般若心経はお釈迦さまが舎利子に呼びかけて説かれたか、あるいは、そのような場面を記憶する他の弟子が記録したかのような表現です。それは違うのです。 説一切有部は多くの仏教哲学書(アビダルマ)を残しております。その中に舎利子を登場させ実在説を説かせているのです。だからこの時代、舎利子は実在論者の代表の如く記録されているわけです。般若心経の作者はそうした時代背景をふまえ架空の舎利子を実在論者の代表とみたてて、説一切有部の実在説否定の論証に利用したのでしょう。実在の舎利子には、はなはだ迷惑な事でしょう。だが、お釈迦さまが説かれた真理の再生と永続に最大の功績ある経典に反面教師として登場出来たのだから、本望として満足されている事でしょう。
Ⅱ 仏教経典の中での般若心経の位置
- (1)般若心経の位置
- 般若心経は仏教経典の真髄を示すもので、全ての仏教経典の要です。
- (2)小乗仏教(部派仏教又は原始仏教)と大乗仏教
- 般若経で空を説きはじめた修行者は自らの教えを大きな乗り物、すぐれた乗り物の意味で大乗と初めて名のりました。それまでの教団はもっぱら自利(自分のみの救いとしての智慧)を説いたのに対して、他利(他人の救いとしての慈悲)を説いたからです。そして旧来の教えを小乗、つまり小さな乗物、おとった乗物と貶称しました。しかし現代では小乗仏教は単なる貶称なので、部派仏教とか原始仏教と云われます。
- (3)部派仏教又は原始仏教の経典(阿含経典)
- 部派仏教の特徴は阿含経典(アーガマ。伝承の意味)を仏説とする点にあります。阿含経典はお釈迦さま直説とみなされる教説を伝承されているからです。 阿含経典は4つないし、5つの経典群からなります。その内容はお釈迦さまが説かれた深遠な真理である縁起の法、縁起の法に基づく修行や教えなど多岐にわたるものです。 キリスト教の聖書とはイエス・キリストとその直弟子達の教説をおさめた書物です。そうした意味では阿含教典は宗祖であるお釈迦さまの教説をおさめたものだから、仏教の聖書に相当する書物と云えるでしょう。ただし問題があります。 阿含経典も後世なると、最初のものに内容を付加したり、削除されたり、解釈が変わったりしているものが多く含まれているからです。 現代の仏教学の主要な課題は阿含経典をお釈迦さま直説のものに修復する事にあると云われます。こうした研究の日本での第一人者と云われるのが、東方学院創設者の故中村元先生です。中村元先生の「原始仏教」(阿含経典)などはまさに仏教の聖書と云えるでしょう。
- (4)大乗仏教の経典
- 大乗仏教の最初の経典が般若経です。 般若経の作者達は、お釈迦さまは全ての実在を否定したと主張、その理法を空と表現しました。龍樹はその主要な著書「中論」で直感と比喩のみで語られる、般若経の空について、「実在(有)でもなく、虚無(無)でもなく、空なのだ」という「中」の論理をもって「空の論理」を完成した。この空の論理が、般若経以後誕生した全ての大乗経典の基層となりました。 そんな事もあり龍樹は日本仏教のすべての宗派の祖を意味する「八宗の祖」と称され、いずれの宗派にも祖師として尊敬されています。
Ⅲ 中国仏教の教相判釈と五時教判
- (1)南伝仏教と北伝仏教
- お釈迦さまが入滅されて百年後、教団の規則(律)の解釈の違いで対立が起こり、上座部と大衆部に分裂しました。上座部の上座とは教団内で尊敬される長老の比丘の事です。上座部は教理と戒律ともに伝統を重視する集団です。大衆部は教理の解釈や戒律の運用において自由主義的集団でした。 この分裂の直前、アショーカ王の子マヒンダがスリランカに仏教を伝えた。スリランカでは上座部仏教が成立し、今日に至るまでパーリ五部と云われる阿含経典が保存されている。その後東南アジアに広がったこの仏教を南伝仏教と云います。一方、仏教はインド本国から北西インドに伝わり、中央アジアを経て、南伝仏教より数百年遅れて紀元後一世紀に中国にもたらされた。これを北伝仏教と云う。
- (2)「如是我聞」(私はかくの如く聞いた)
- ①阿含経典(部派仏教経典、又は原始仏教経典)の如是我聞
- お釈迦さまの時代、伝達の手段としての文字に対する評価が大変低いので、聖なる教えを文字にして記録する考え方がなかった。そこでお釈迦さま入滅後、教えを正しく記憶して散逸を防ぐための結集が行われました。 結集とはお釈迦さまの教えを弟子達が誦して互いの記憶を確認しながら、合議の上で聖典を編集する集会です。 結集において弟子達は、当然の事ながら、「私はかくの如く聞いた」として内容を誦した。このため「如是我聞」を経典の冒頭に記する方式が経典の形式として定着していきます。
- ②大乗仏教経典の如是我聞
- 最初の大乗経典は般若経です。般若経誕生後も、龍樹によって空の論理が集大成された後にも多くの大乗経典が誕生した。お釈迦さま入滅後数百年後に誕生したそれらの大乗経典も、阿含経典と同じように冒頭「如是我聞」が記されています。 これは次の理由によると云われます。大乗仏教の先駆者となったのは、神秘的瞑想を行ずる一群の修行者でした。彼等は瞑想の中で、あるいは夢の中で、仏(悟った人)と会い、また空中から仏の声を聞いた。この体験は現在、十方世界に存在する諸仏が、すべての人は大乗の修行を追求する事により、無上にして完全な悟りを得て仏になる事が出来ることを保証していると理解されたのです。この体験により、 お釈迦さま入滅後数百年経って誕生した経典も仏説と受け取る態度が可能となり、如是我聞を経典冒頭に記する形式を踏襲するに至ったと云われる。
- (3)中国への仏教伝播
- 中国へ紀元後一世紀頃仏教が伝播し、紀元後二世紀ころから仏教経典は漢訳され始めました。ところが中国へは経典成立の時期的順序に関係なく伝えられた。しかも部派仏教の阿含経は勿論、大乗経典もその冒頭に「如是我聞」とあります。 このため中国では、伝えられた経典は全てお釈迦さまが成道されてから、入滅されるまでの四十五年間に説かれたものと誤解されたのです。
- (4)中国における教相判釈と五時教釈
- ①教相判釈
- 中国では、経典は全てお釈迦さまが説かれたとの理解のもとに、中国仏教独自の経典解釈学、教相判釈が発達する事になります。教相判釈とは伝来した諸経典の内容と成立の時期、その順序次第を解釈して、経典の根本真理と仏道修行の究極目標を確立しようとする学問です。
- ②五時教判
- 教相判釈で有名なのが慧観の五時教判、中国天台の智顗が説いた五時八教です。ここで五時とは当時中国に伝来していた全ての教典をお釈迦さま一代の説法として五つの時代に分けたものです。
- ⅰ 華厳時(華厳経)
- 華厳経はお釈迦さまが成道された時の深甚微妙な真理を説く高度な大乗仏教経典
- ⅱ 阿含時(阿含経)
- 阿含経は真理の一面のみを説く程度の低い経典
- ⅲ 方等時(維摩経、勝鬘経など)
- 大乗仏教の入門的な教え
- ⅳ 般若時(般若経)
- 大乗仏教の上級者の教え
- ⅴ 法華・涅槃時(法華教、涅槃経)
- お釈迦さまの真意を表す最も勝れた完全なる教え
- お釈迦さまはまず奥深い悟りの内容を説かれたがそれが華厳経で、この時代が華厳時です。しかし華厳経はあまりに深甚微妙で弟子達に理解されないため、内容を初歩的なものに落として説かれたのが阿含経で、この時代が阿含時です。弟子達の成長に合わせて教えを方等の時代、般若経の時代と徐々に内容を高めていって最後にお釈迦さまの真意として説かれたのが法華涅槃経で、この時代を法華涅槃時とした考え方でした。 この五時教判が中国仏教最大の特徴で日本仏教は今もってその影響下にあると云われます。お釈迦さまの直説の阿含経典はこの教相判釈によって仏教史の片隅におかれた訳です。日本においては明治中葉になって、サンスクリット語による仏教学研究が進んでいた西欧に留学した学僧の研究により明らかとなり、阿含経典は原始仏教経典として復活してきました。それが今日、中村元先生など多数の専門家により、研究が進んできている訳です。